カオスのお手玉

読書家にはほど遠い怠け者による、編まれた紙片の備忘録。どなたかのお役に立てれば、もっけの幸い。

一人暮らししたら、負担は軽くなるのか

夜中につらつら考えてしまうと、よくたらればを考える。

もし、私が子どもの母ではなかったら(たとえば急成長して急に自立、とか)。

まずは離婚して一人暮らしする。1K+本棚部屋のあるマンションに引っ越す。できればペット可。横長の丸い顔した短毛種ネコを飼う。

 

好きな時間に起きだして、カーテンを開ける。洗濯機のスイッチを押す。パンにレタスと夕飯の残りのローストビーフとチーズを挟んだサンドイッチをグリルで焼く。淹れた紅茶にすこし牛乳を入れて、ゆっくり朝食をとる。新聞に目を通す。ベースの音が強めの音楽を聴く。

 

皿を洗って片付けテーブルを拭いたら、窓を開けてハタキで埃を落とし、掃除機をかける。ウェットクリーナーで水拭きする。読み散らかした本を本棚へ戻す。水回りの掃除をする。

洗濯物が終わったころなので、外に干しに行く。ちょっとだけ伸びをする。

 

窓は開けたまま、ソファに寝転んで本を読む。エッセイか、短編小説集か。飽きてきたら、仕事の資料用の本に目を通す。きっと煮詰まる。なので外に出たくなる。

 

コンタクトを入れて化粧をする。髪をブローして、マスカラをつけて口紅をひく。ジーンズの裾をロールアップして、スニーカーを履いてスーパーへ。

 

自分が食べたいものだけ少量の食材を散歩がてら買いに行き、帰ったらすぐ料理。自分が作ってみたいものだけ作る。写真撮ってSNSとかに上げて、「もっと美味しくするには?」なんて質問を投稿したりする。食器や鍋は洗って片付ける。

 

すこし化粧を直して、再度外出。映画を観に、日比谷、新宿、渋谷、吉祥寺などへ。結局映画館ハシゴして終了。近場の喫茶店に入って、映画評をしたためる。TSUTAYAでDVDを借りて帰路につく。途中の商店街で、てきとうに夕飯を買って帰る。

 

ごはんを食べながらDVDをみる。終わったらやはり映画ノートにコメントを書きつける。風呂に入って、美容パックして、マニキュアでも塗ろう。寝室に入って、仕事用の本やら趣味の本やらいろいろ読む。飽きたらタブレットNetflixのドラマをみる。で、寝る。

 

 

基本的な流れは、いまの生活とそれほど変わらない気もする。外に気軽に出られないのが大きい。これはかなり大きいな。時間を気にして帰宅しなきゃいけないというのも。

実際にしていることは同じようでも、「したい」からするのと、「すべき」だからするのとでは、心理的な負荷がちがうんだろうな。

いまは誰かに仕えている感覚が強い。なんなら、一人暮らしはもっと先でもいいから、とりあえず今は子どもとふたりだけで暮らしたい。

 

文化は、享けるも与えるも、基本的にはひとりの個人だけが主体になる。

書くことはカオスのはじまり

仕事柄、毎日かならずnote. やcakes、種々のブログをチェックしている。実務もあるので、チェックのための時間は制限を設けて、没頭しすぎないようガーッと目を通す。


ブログを継続的に投稿しているひとたちって、すごいなあと感心してしまう。息を吐くように書けるんだろうなあと、なかばうらめしいくらいの気持ちだ。


自分の考えや思いを、不特定の読者に伝えたい、あるいは問いかけたいという動機は、自意識の発露でもあるだろう。

その一方で「つまらないと思われたらどうしよう」「キャラ設定しなくちゃ」「賢く思われたい」とか、ムダな自意識や下心は控えめ。

自意識バランスがほどよいのだろう。

 

自分を客観視するためのツールにしている人もいるだろうし、書くことが鬱屈した思いの発散になる人もいるようだ。

私にはできない。読み返してみれば瞬時に赤面するほど恥ずかしいし、そもそも自分の外に思いを放つのはストレスになる。


編集サイドでは、ブログやTwitterに書き散らされた(ように一見すると見える)文章に目を通し、共通して浮かび上がる一つの主題を見出す。→そして加筆してもらって書籍のかたちに纏める。

あるいは、執筆者本人も気づかない魅力的な書きグセ、思考のクセを発見し、そこを生かして伸び伸び書いてもらって→まとめて本にする。

やっぱり編集の語彙そのものが「集めて編む」と書くように、織物のような完結したまとまりを目指すものなのだろう。

 

まとめることへの指向、というより強迫観念があるようで、バラバラに解体すること、そして混乱することは、私にはストレスでしかない。

書くことは、ビリヤードの最初のショット、きっちり並べられた球を一撃で撒き散らす、混沌のはじまりみたいに思えるのだ。

書くことはカオスのはじまり。読み手に奇襲を仕掛けて、そのどさくさの中に率先して身を投じることなのだ。

 

ああ、わずらわしい。それってすごく、めんどくさい。

 

加えて、書かれたものは優劣・快不快の評価をくだされたりするわけで、こわいものでもある。一つひとつの語彙センスや起承転結といった抑揚、フッてボケてツッコんでオトすという痛快さ。あらゆる側面から良し悪しをはかられてしまう。こわい、そりゃこわいよ……及び腰になるのも道理だ。

もっともこれは、私が条件反射的に、だれかの書き物を瞬間的に評価しては読み捨ててしまうことへの罰だろう。地味だけど蝕むような、鈍痛ブーメランである。

 

にもかかわらず、やはり書いてみたいし、書きつづけてみたい。いまだかつて継続できたことはないけど。

このウェブ社会のなかに、仕事ともプライヴェイトとも離れた、自己完結した足場がほしいのだ。足場を得るためには、書くことで居場所をつくるしかない。

自分の文体を見つけてみたい思いもある。いったん書きなぐってバラバラになった言葉から、自分にとっていちばんラクな文体を探してみたい。私と言葉の心地よい関係を見つけられたとき、もしかしたら円環が閉じるような平安が、短い間でも訪れるかもしれない。淡い期待がある。

 

そのためにまずは、まあ、書きとっ散らかしてみようか。特段ネタがあるわけじゃないけど、エッセイ(試論・随筆)のつもりで書き付けてみようか。

 

でもやっぱ、ストレスフルだし、めんどくさいけど。

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ふり返れば積読本---こだわり書店の本当のライバル

先日書いたような、意欲的な

インディペンデント系書店が大好きだ。

たまたま近くに行く用事があれば

持ち時間がなくても入りたくなるし、

一度足を踏み入れれば1間以上は長居してしまう。

新店舗を見つければ、

好みを共有する友人・知人に報せたくなる。

 

しかし、どういう人が客として

足を運んでいるのだろうと考えると、ふと分からなくなる。

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大人の花街、神楽坂が、読書人にとっても熱いエリアになっているとは。版元の新潮社もあることだし、本との相性のいい街なのだろうか。

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