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ヒイラギの実をひとつ

読書家にはほど遠い怠け者による、編まれた紙片の備忘録。どなたかのお役に立てれば、もっけの幸い。

父から逃れられない女たち ―――矢川澄子『「父の娘」たち』

『「父の娘」たち』 平凡社ライブラリー579 2006年

 

 はじめて読んだ矢川澄子氏の著書。タイトルに惹かれつつも、サラッと読み流すつもりだった。……が、小休止を挟んだり、書き込んだりで、ずいぶん時間がかかってしまった。

 森茉莉アナイス・ニンというふたりの「少女」を通して、矢川澄子氏の少女論が展開される一書。物腰やわらかで流れるような語り口にもかかわらず、想像より中身はハードだった。

 

森茉莉――少女はどんな大人になるのか?

 I章では、森茉莉の文学と実生活における「父と娘の深い恋愛」を取りあげつつ、そんな少女がどんな大人になっていったかを追っている。自閉的(あるいは自慰的? 自己完結的?)な世界でぬくぬくと育った少女が、そこを追い出されたのちに、社会とどのように関わっていくのかが読み取れるような気がした。

 晩年の森茉莉との交流を回顧する矢川の筆致には、仰ぎ見るような視線が感じられた。描かれている事実は、二度の離婚と「汚部屋」とも言えてしまうほどの雑多な生活空間であるにもかかわらず。これを嘆かわしいこととしてではなく、あくまで敬いをもって書き連ねている。年齢を重ねても、「少女」はやはり社会からは閉じた円環のなかで生きていくのが心地よいということなのか。

 

アナイス・ニン――「蜜の部屋」に居られなかった少女

 II章では、父との関係を抜いては語れないアナイス・ニンの少女性が、森茉莉との比較で語られる。

「十七歳で結婚するまで、その鴎外の膝元の「甘い蜜の部屋」でぬくぬくと惰眠をむさぼっていた森茉莉と、おなじ日々を孤独にさいなまれながら、再会した父との合体をとげたアナイス・ニンと。はたしてどちらの作家が次の世紀にも読み継がれるであろうか。」(p149)

 また、父の面影を追いながら孤独の中に生きてきたアナイスが、唯一すべてを打ち明けられる友として傍らに携えてきた「日記」という文学の手法についても論じられている。

 

矢川澄子の少女論

 恥ずかしながら未読の、森茉莉にもアナイス・ニンにも興味をそそられたが、矢川の少女論がより立体的に浮き彫りになるのは、最終章の付論ではないかと思う。

 中学校に入る手前の女の子が矢川の自宅に遊びに来たときの出来事を振り返り、「愛らしくはあっても格別魅惑的な意味をもつものとは思えなかった」と語り、「(矢川が)日頃考えていた少女とはそれでは何だったのだろう」と自問している。この問いから、現実の年齢とは関係のない「精神現象としての少女」や、「己れを人前にさらけだすことを本能的に忌み嫌う種族」といった(当面の)答えを出している。

 私には、自分自身やその属性が人を惹きつけることを知ったうえで、自分の欲望を満たすためにそれを利用する小悪魔的な少女像がある。そのため、矢川の少女論には首肯しがたかったが、ひとつの像として、なるほどと腑に落ちた。

 また、青春時代を病にかかっている時期と見なす矢川は、「すべての女性が思春期の予後としての人生を送るべく、運命づけられているのではなかろうか」と述べている。「思春期の予後」という言いまわしにハッとさせられた。たしかに身に覚えがあり、耳が痛い。

 少女論だけでなく、「思春期の予後」を生きている今の自分を考えるためにも、示唆に富む内容の本であった。

 

少女は母になるか?

 なお、矢川は「少女とは、自分の身が生殖・繁殖のために外に向ってひらかれていることを自覚していない女」とも定義している。母にならない自由を持つということなのか、子を持つことを望まれていないということのか、それは分からない。ともかくも子を持たぬ存在として定義されているのだが、森茉莉は二人の息子の母でもあった。この点をどう考えればよいか、もうすこし探ってみたい。